川口衞著「構造と感性: 構造デザインの原理と手法」



大空間構造の発展を歴史的に俯瞰すると,人類は構造システムの開発を通して大スパン化軽量化を常に追求してきたと言えます. 

しかし言うまでもなく,構造システムの開発は簡単なものではありません.大抵の実務プロジェクトでは,予算と時間が限られていて,新規に開発するよりも,実績があるものを応用したほうが遥かに効率的ですし,リスクもありません.研究開発という形で,時間の制限少ない場合もありますが,それでも必要とされるリソースは膨大なものになります.

そして,開発と言っても多くのものは技術的な進歩という点では,小さな歩幅のものに限られます.それもそのはず,世界中のエンジニアが何千年もの間,重力や地震といった地球上で起こる普遍的な自然現象に対して,小さな歩幅で一歩一歩技術を進化させてきているわけで,一個人が大きな歩幅の開発を実践することは並大抵の難しさではありません.

ドイツ人の学生に代々木体育館の案内をする川口氏 (Photo: taken in Exkursion "Baukunst in Japan 2009" organised by Entwerfen und Konstruieren - Massivbau, TU-Berlin)



前置きが長くなりましたが,ここからが本題.私はこういった狭義での「構造デザイン」的観点から,大きな歩幅の業績を残されてきている川口衞氏とヨルク・シュライヒ氏の2人には格別の尊敬の念を持っています.

両者は世代も近く,その実績の大きさから比較されることが多いですが,そのテーマは別の機会に譲り,今回紹介したいのは,その川口氏が書いた「構造と感性: 構造デザインの原理と手法」.大変光栄なことに,ご本人よりサイン入りでご恵贈頂きました.上述の通り,私は川口衞氏の大ファンですので,私の書棚の中でも最も価値の高い書籍の一つになりました.

代々木第一体育館 (Photo: taken in Exkursion "Baukunst in Japan 2009" organised by Entwerfen und Konstruieren - Massivbau, TU-Berlin)


本書は,川口氏の数多くの業績が,そのバックグラウンドとともに,ご自身の手で書かれていることで,非常に価値の高いものになっています.世界中で多くのエンジニアが興味を持つ内容であることは明白で,この本は翻訳出版されるべきものだと強く思います.(実際すでに私のもとにも一度ドイツ人のエンジニアから,本の内容について教えてほしいという問い合わせが着ています.)

大空間への構造システムとしては,1960年頃からケーブル構造が台頭し,本書にある通り,膜構造,空気膜構造によってわずか20kg/m²程度で大空間を覆うことができるようになりました.つまり,コンクリート・シェルの終焉からわずか数十年で人類は究極の軽さに達したと言えます.川口氏はその著しい軽量化・進化のスピードの中心に居て,世界を牽引されてきました.

坪井研究室で構造を担当された代々木第一体育館は,現在でも日本を代表する建築となっています.よくミュンヘンのオリンピック・スタジアムの屋根と比較されますね.ミュンヘンがその圧倒的なスケールの「純粋な」吊り構造によってエポックメイキングな建築になっているのに対して,代々木はセミリジッドの吊り構造による独特の曲面によって,世界で類のない唯一無二の建築になっています.代々木体育館はぜひ世界遺産になって欲しいですね.

よく知られている話ですが,大阪万博のお祭り広場大屋根でスペースフレームの接合部として設計された鋳鋼ジョイントは,見学したピーター・ライスを通して,ポンピドゥー・センターの設計に大きな影響を与えました.

また同じくお祭り広場大屋根では,透明な屋根という建築的な要求に対して,世界初のフィルム屋根を開発されています.皮肉なことに日本ではETFE膜構造の実施は大分遅れましたが,現在では空気膨張構造は世界中でよく使われる構造システムの一つになっています.

原爆の子の塔 (1958) 川口氏の構造デザインとしての処女作 (Photo taken by author in 2016)


パンタドーム構法は川口氏の数多い業績の中でも,その規模や革新性の高さから最も有名なもののひとつです.「原理が単純で関与する要素の数が少ないものほど信頼性が高い」(本書p.212)とあるように,本当に革新的な新技術はシンプルなものが多いように思います.

パンタドーム構法のフープ材を取り除くことによりドームを折りたためるようにする」という発想は,聞けばどのエンジニアもなるほど,と頷くほどシンプルなものです.ですが,果たして自分が発想できただろうかと考えると,その発想力の偉大さに目を向けざるを得ません.

そして何より,この発想を実現まで漕ぎ着けた実行力には,ただただ脱帽するばかりです.当然のことながらこの構法は,スケールの大きいドームでその真価を発揮しますが,規模が大きくなるほど新技術の採用へのリスクは大きくなります.本書には,パンタドーム第一号となるワールド記念ホール(1985年竣工)の設計における,施工会社であった竹中工務店とのやり取りや,採用に至るまでの社長の英断のエピソードが書かれていますが,当然これは川口氏ご本人にしか書けないものです.

このエピソードを読んで勇気づけられないエンジニアはいないでしょうし,専門的な記録としても,本書の価値を比類なきものにしていると言えます.また,パンタドーム構法を,建設作業員など「正当な立役者たちに晴れの場を提供する」場として考えられている,というエピソードには,そのお人柄がよく表れていますね.

なみはやドーム 斜め方向へのリフトアップを実現 (Photo: taken in Exkursion "Baukunst in Japan 2009" organised by Entwerfen und Konstruieren - Massivbau, TU-Berlin)




個人的な話になりますが,私はドイツに来て,シュトゥットガルト・スクールで育まれてきたエンジニアの言葉の強さに驚きました.それはシンプルでありながら,強度があります.私は日本では土木出身ということもあり,川口氏の言葉に具体的に触れたのはドイツに渡ってからでしたが,川口氏の言葉にも,ドイツのエンジニアらと同じくらいの強度を感じます.本書には,今まで色々な媒体に散らばっていた川口氏の誇大な表現が一切ない,誠実で揺るぎない言葉がまとめられています.
 
本書について唯一,不満があるとずれば,本書のもとになった法政大学建築同窓会が刊行したセミナー記録冊子「構造と感性」(I巻)の最後に掲載されている,代々木体育館についてのコメントが本書には載っていないこと.本書と違いインタビュー形式の記述のため掲載されなかったと思われますが,川口氏から見た当時の代々木体育館の設計のエピソードが臨場感たっぷりで記載されていて個人的には大変興味深い内容でした.

法政大学建築同窓会が刊行したセミナー記録冊子「構造と感性」


ちなみに,英語で翻訳出版するべきであると書きましたが,実は2009年に,スペインのバレンシア大学出版局(Editorial De La Universitat Politècnica De València)より作品集が出版されています.シェル・空間構造国際会議(IASS)の50周年イベントのひとつとして企画された川口氏の展覧会のために出版されました.全ページカラーで巻末には英語の翻訳もあります.短いですが,ご子息である川口健一氏へのインタビューも載っています.

Mamoru Kawaguchi: Alberto Domingo Cabo, Carlos M. Lázaro Fernández (2009)










私が書くまでもなく,本書「構造と感性」は構造デザインを志す全てのエンジニアにとっての必携書であると言えるでしょう

追記 2017-11

下記の記事によると,多くの先輩がいる中,代々木競技場を担当することになったのは,当時の坪井研究室でケーブル構造などのテンション構造を成熟したレベルまで研究していたのは川口氏だけだったから,とのこと.他の方はシェル中心.まさにシェルからテンション構造への過渡期ですね.その後の世界のテンション構造を牽引される萌芽となったことが分かります.

日経アーキテクチュア 「駆け出しなし」で代々木競技場に大抜てき, 川口衞氏(川口衞構造設計事務所代表、法政大学名誉教授)、その1[若き日の葛藤編]



author